〈1〉古墳の出現は畿内と同時期

〈1〉古墳の出現は畿内と同時期



卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良県桜井市で、本社ヘリから) かつて日向国(ひむかのくに)と呼ばれた南九州は、記紀によれば皇祖発祥の地である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は日向の高千穂峰に降臨、そのひ孫が神武天皇である。こうした神話や伝説にもっともらしさを与えているのが、宮崎平野や志布志湾沿岸に分布する九州最大、全国でも有数の古墳群だ。

 戦後の記紀批判と考古学の成果によって、天孫降臨や神武東征は否定され、これら古墳の被葬者も5世紀にヤマト政権に服属した地方首長とされてきた。ところが近年の考古学の成果は、こうした定説にも見直しを迫っている。というのは南九州の前方後円墳の出現が、畿内とほぼ同じ3世紀後半にさかのぼることがわかってきたからだ。

 古墳の年代は周溝などから出土した土器や円筒埴輪(はにわ)の形式によって推定されるが、未発掘の古墳がほとんどで、発掘されていても遺物が少ない南九州では、こうした手法が採用できない。このため柳沢一男・宮崎大教授(考古学)は古墳の墳形に注目した。

 「その結果、奈良県大和盆地東南部に分布する前期古墳をそのまま縮小したと思われる相似形の古墳が存在することがわかってきたのです」



箸墓古墳の2分の1規格である生目古墳群1号墳(宮崎市で、本社機から) 例えば宮崎市の生目(いきめ)古墳群1号墳(墳長130メートル)は箸墓(はしはか)古墳(墳長280メートル)の2分の1、鹿児島県高山町の塚崎古墳群10号墳(墳長40メートル)は行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵、墳長240メートル)の6分の1の平面規格という。前方部と後円部の長さの比や、古墳中央部のくびれ具合までぴったり相似することを偶然と見なすわけにはいくまい。

 「これらは畿内の大型古墳の規格に従ったもので、築造時期はモデルの古墳とほぼ同時期と考えられる。定型化した最古の前方後円墳とされる箸墓や、これより古いとされる纒向(まきむく)型古墳と同タイプのものもあり、古墳の出現は畿内とほぼ同時期といえる」

 前方後円墳という共通のシンボルを持つヤマト政権は、畿内勢力が武力で他を従えたというより、初期の古墳が分布する畿内、吉備、讃岐、豊前などの各勢力がヤマトの大王を盟主に抱いた連合政権と考えられている。南九州に初期の古墳が存在する事実は、ヤマト政権成立当初から、日向がその構成員であったことを物語っている。

 こうした勢力は古墳時代に突如出現したわけではなく弥生時代にその萌芽(ほうが)を見いだすことができる。南九州はこれまで弥生文化の僻遠(へきえん)の地とみられていたが、近年の発掘で宮崎市の檍(あおき)遺跡、下郷遺跡など、北部九州や畿内同様に環濠(かんごう)集0619落が存在することが明らかになってきた。

 柳沢さんは日向のヤマト政権参画の目的を「朝鮮半島からの安定した鉄資源の確保にあった」とみる。農具や武器の素材として欠かせない鉄が国産となるのは5世紀末以降でそれまでは朝鮮半島南部(弁辰)からの輸入に頼っていた。「弥生時代まで半島との交渉を握っていた北部九州勢力に頼らず鉄資源を入手するため、瀬戸内海沿岸と日向の勢力が構築した首長ネットワークこそがヤマト政権ではないか」

 日向で当初最も有力だったと考えられるのが生目古墳群を造営した勢力だ。ここでは前述の1号墳を始め、日向の古墳群の中では突出した墳長120―140メートル級の前方後円墳3基が4世紀末まで継続して営まれた。

 ところが5世紀になると同古墳群の古墳は小型化し、代わって西都市の西都原古墳群に2基の巨大古墳が出現する。

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 南九州に営まれた古墳文化を手がかりに、神武東征などの伝説や隼人(はやと)・熊襲(くまそ)の謎に迫る。

http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040619.htm


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